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決闘罪の話

 暴走族間の抗争等での「タイマン」と称する一人ずつ代表を出し合って行うケンカに、「決闘罪」が適用されることがあります。決闘罪は、明治22年制定の「決闘罪ニ関スル件」に定められており、検察の統計を見ると、多いときで数十名がこの罪名で受理されています。

 この法律には、決闘罪のほか、決闘挑応罪(決闘を挑む罪・それに応じる罪)、決闘立会罪、決闘場所提供罪などが定められています。「決闘」の定義は定められていませんが、判例では、「当事者間の合意により相互に身体又は生命を害すべき暴行をもって争闘する行為」とされ、一定の慣習・規約に従うことや、証人や介添人が立ち会うこと、名誉の回復を目的とすることなどは、犯罪の要件としては必要ないとされています。また、1対1で行われる必要もありません。

 なお、明治41年制定の刑法施行法により、条文に規定されている「重禁錮」は「有期懲役」に変更され、附加刑としての罰金刑(20円以上200円以下など)は廃止されています。

 この法律が制定される前の旧刑法(明治15年施行)には、決闘罪の規定は設けられていませんでした。しかし、明治21年に、当時新聞記者であった犬養毅氏に対し決闘が申し込まれ、犬養氏が拒絶するという事件が報道され話題となり、この事件に触発されたと思われる決闘申込事件が続出しました。また、決闘の是非についての論議が盛り上がり、中には「決闘は文明の華」であるとする無罪説もあったようです。そのようなことから、西欧型の決闘の風習が我が国に伝わるおそれのあることが考慮され、翌明治22年に特別法として「決闘罪ニ関スル件」が制定されたといわれています。

 この法律は、当時のドイツ刑法のように、伝統的な決闘準則など一定の方式に準拠した決闘については、たとえ殺傷の結果が生じても特別に軽く処罰しようとするものではなく、決闘に対して厳しい態度で臨もうとするもので、決闘により人を殺傷した場合には、殺人罪等の「刑法ノ各本条ニ照ラシテ処断」するというものでした。結局、法律制定後は、その効果かどうかはともかく、決闘の風習が我が国に定着することはありませんでした。

 その後の刑法の全面改正を目的とした改正刑法草案(昭和49年)作成時の議論では、決闘の風習はほとんど存在しないとして、法律の廃止を前提に検討されましたが、暴力団員による果たし合いなどにこの法律が適用されていたことを考慮して、「決闘挑応罪」だけが草案に取り込まれました。ただ、「決闘」という用語では、西欧型の決闘を連想させ適当でないとして、「凶器を用いて闘争する」という用語に置き換えられています。もっとも、この改正刑法草案は公表されたのみで成立するには至らず、「決闘罪ニ関スル件」は現在でも存在しているのです。

  • ※ この記事は、参議院法制局の若手・中堅職員の有志が編集・執筆したものです。2020年4月に編集・執筆したものですので、現在の情報と異なる場合があります。なお、本記事の無断転載を禁じます。