法制執務コラム

「次官」の歴史―自由任用の観点から―

 平成13年1月に政務次官制度が廃止され、新たに副大臣・大臣政務官の制度がスタートしてから丸2年が経過し、これらの制度も定着してきた観があります。大臣を政務の観点から支える官の制度は、戦前から既に存在し、現在に至っています。今回は、旧政務次官の誕生から定着までの経緯について、特に事務担当の次官の自由任用をめぐる攻防との関係から、振り返ってみたいと思います。

 我が国の法令で初めて「次官」という文言が登場するのは、明治19年の「各省官制」においてです。ここでの「次官」とは、政務次官ではなく、現在の事務次官を指していました。

 当初の次官の任用は、資格や能力、勤務実績に基づいて行うのではなく、政治的に自由に任用する、いわゆる「自由任用」とされていました。しかし、この次官の「自由任用」は、明治後期以降に次第に勢力を伸ばしてきた政党と、藩閥を母体とする官僚との間の確執により、激しく揺れ動きます。

 明治31年に初の政党内閣として誕生した第1次大隈内閣は、藩閥政治への対抗上、行政機構への政党勢力の拡張を意図し、大量の政党員を各省の次官、局長などに任用しました。しかし、この内閣は僅か4か月余りで崩壊します。そして、これを受けた超然内閣たる第2次山縣内閣は、逆に、政党勢力の伸張を抑えるため、自由任用の対象を限定して大隈内閣で任命された政党員を排除するとともに、様々な施策を通じて、強固な官僚制を築き上げ、政党政治の影響を極力排除しました。

 大正に入ると、再び政党による行政内部への勢力拡大が意図され、大正2年の第1次山本内閣では、陸・海軍次官を除く次官が再び自由任用とされます。しかし、これも長くは続かず、翌年誕生した第2次大隈内閣は、次官を自由任用から外すとともに、新たな自由任用の官として、参政官・副参政官を設置しました。これが政務次官の先駆です。参政官は「大臣ヲ佐ケ帝國議會トノ交渉事項ヲ掌理ス」、副参政官は「大臣ノ命ヲ承ケ帝國議會トノ交渉事項ニ參與ス」とされていました。

 その後、大正9年にも、原内閣が、政友会の勢力拡張を意図して、三たび次官を自由任用とするとともに、参政官・副参政官の制度も廃止しました。ところが、これもそれほど長くは続かず、大正13年に成立した加藤内閣では、次官を自由任用から外し、新たな自由任用の官として、政務次官・参与官を設置しました。その職務内容は、かつての参政官・副参政官とほぼ同様です。

 その後は、政務次官・参与官の役割に大きな変更はなく、戦後、参与官は廃止されたものの、政務次官の制度は、平成13年1月まで継続してきました。

 二つの「次官」については、自由任用をめぐる激しい綱引きが繰り返されたものの、最終的には、政務担当の次官は自由任用で、事務担当の次官は資格・能力・勤務実績による任用で、という棲み分けがなされてきたことが窺えます。

 なお、戦前の勅令では政務次官等の職務は「帝国議会との交渉事項」とされていましたが、現在の副大臣等について法律上そのような定めはありません。平成13年1月の閣議決定は「国会等との連絡調整」を副大臣等の職務の一つとしていますが、副大臣等の職務についてはまだ議論があるようで、今後どのようになっていくのか興味深いところです。

(小野寺理/「立法と調査」NO.233・2003年1月)


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