法制執務コラム

遡及適用と経過措置

 新しい法令を制定し、あるいは既存の法令を改廃する場合、それまでの法制度から新しい法制度に円滑に移行できるようにすることは、社会生活の安定の上で極めて重要です。そこで、新法令をその施行前にされた行為に対してさかのぼって適用し、旧法令が与えた効力を覆すことは、法律秩序を混乱させ、社会生活を著しく不安定にする可能性が高いことから、厳に戒めなければならないといわれています。特に罰則については、憲法第39条が明文で遡及処罰の禁止を規定していますから、絶対に遡及適用はできません。そのため、法令の遡及適用は、それが一般国民の利害に直接関係がない場合や、むしろその利益を増進する場合について行われるのが原則です。

 しかし、社会の変化が急激で一般の価値観が大転換するような状況では、たとえ既得の権利や地位を侵害することがあっても、より高次の公共の福祉の観点から制度の改変が求められる場合があり得ます。もちろん、実際にはこのような事態の発生は滅多にないのですが、平成3年10月に行われた証券取引法の改正のケースはそれに近い貴重な例といえます。

 この法改正は当時、戦後最大級の証券不祥事として社会の大きな非難を浴びた証券会社の大口法人顧客に対する損失補填の事件に対応して、証券市場の公正性・健全性に対する投資者の信頼の確保を目的に行われたものです。証券会社による損失補填・損失保証等を禁止するとともに、顧客がこれらを要求する行為も禁止し、違反に対しては刑事罰を適用する(証券取引法50条の3、199条、200条)というかなり厳しい内容ですが、ここでは新たに損失補填等を刑事罰で禁止するにあたり、改正法施行前にされた損失保証契約について経過措置を講じていません。

 そのため、証券会社は改正法施行後に施行前の損失保証契約を履行すれば、損失補填として処罰され、顧客もその契約により損失補填を要求して受ければ処罰されるということで、結局、施行前の損失保証契約はすべて履行できないことになりました。

 もっとも、改正法は施行後の損失補填や損失保証を禁止しただけで、施行前の損失保証契約を無効とすることを規定しているのでもありません。ただ、何の手当もなしに損失補填を刑事罰で禁じたことによって事実上、施行前の損失保証契約が履行できなくなり、無効になったと等しい状態が出現したということです。

 改正法施行前は損失補填は合法であり、損失保証契約も私法上有効で履行すべしというのが通説・判例でしたから、通常の発想からすれば、施行前の損失保証契約に基づく損失補填には改正法の禁止規定は適用しない旨の経過規定を置きたいところなのですが、少し考えてみると、それは無理であることが分かります。顧客の処罰まで含めた厳罰による禁止を定める以上、損失補填は悪性の強い反社会的行為になったと言わざるを得ませんし、そうであれば、施行前の損失保証契約に基づく損失補填であっても許されない行為としなければならないのは当然だからです。反社会的行為を経過措置で合法的にできるようにするなど、法の正義から到底許されないことでしょう。改正法下では契約不履行が公共の福祉なのです。

(荒井達夫/「立法と調査」NO.195・1996年9月)


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